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2020年3月10日

「復興五輪」の裏で「長期にわたる緊急事態」。震災9年、被災地の声は

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東日本大震災から9年。東京オリンピックの聖火リレー出発地「Jビレッジ」(福島県双葉郡楢葉町)が昨年春に全面再開、今年3月7日には常磐道インターチェンジの開通式典に首相が出席する、といった「復興五輪」のニュースが取りざたされる中、東京電力福島第一原子力発電所の廃炉は進まず、処理水や除染後の汚染土の処分も未解決のままだ。

NPO法人ジャパン・プラットフォーム(JPF)は、海外での平和構築や緊急時対応のノウハウを生かし、発災直後から資金調達と分配、ネットワークづくり、伴走型の事業進捗管理、外部機関を入れた評価活動など、被災者支援団体をサポートしてきた。地域事業部チームリーダー/福島担当の山中努さんは、発災直後から東北地方に入り、今は福島で活動する。

福島では2014年から順次避難指示が解除されているが、帰還が進めばすぐに町が元通りになるわけではない。山中さんは、「福島は「長期にわたる複合的な緊急状態」にある」と言う。避難指示が解除されても、なお残る地域の課題は?県内のNPOによる新しい取り組みは?復興政策の課題は何か?山中さんに話を聞きに、福島県の浜通り(同県沿岸部)を訪ねた。

震災直後、東北へ。──そこから9年、今の課題は。

──山中さんの震災後の活動について教えてください。

発災直後はNPOの支援出動にかかわる情報収集を担当しました。特に3月12日、原発事故の情報収集、提供には神経をすり減らしました。そのあと陸路で19日に被災地入り。宮城県社会福祉協議会のボランティアセンター(ボラセン)をサポートした後、そこから派遣され、支援体制が脆弱な上に被災が最も深刻だった地域の一つ、女川町でもボラセン支援をしました。当時はゆっくり寝られるところもない、緊急事態でした。

冬が訪れる前には、被災者が無事に避難生活を送るための準備でした。岩手に拠点を移し、基本的にはNPO活動のモニタリングや支援が中心でしたが、岩手や福島のみなし仮設で暖房配付を手伝ったりもしました。2013年からは福島の中通り、2015年からは浜通りに拠点を移して、活動を続けています。避難生活の準備から、復旧・復興のフェーズに入ったので、住民が自ら立ち上がる力を強くすることを大切にしています。

※みなし仮設住宅:震災などで住居を失った被災者が、民間事業者の賃貸住宅を仮の住まいとして入居した場合に、その賃貸住宅を国や自治体が提供する「仮設住宅」(応急仮設住宅)に準じるものとみなすこと

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原発事故が収束していない中での「帰還」が引き起こす問題は

──原発事故のあった福島県では、事故発生直後から周辺地域へ避難指示が出て、避難指示地域外の県内(いわき市、二本松市)や全国各地で、今も避難生活を続ける人たちが4万人もいます。一方で、2014年4月の田村市都路地区を端緒に、避難指定区域の住民の帰還が始まりました。

問題の発生源である原発事故が収束していないのに、帰還政策がどんどん進んでいます。汚染水処理、廃炉のめども立っていない。除染で出た汚染土を再利用する方針も出ています。避難を余儀なくされた人たちにとって、決して安心できる状況ではありません。帰還できるようになり、より放射能に対する考え方の違いが際立って、住民どうしの分断や世帯分離、家庭崩壊からくる困窮も深刻化しています。

自治体の支援も、戻った人たちだけを対象に切り替えるところもあります。帰還するかどうかの悩みのなか、元の地域外にいる人たちが孤立してしまう。だからNPOは2014年ころからは、行政の支援が届かないところを中心に支援してきました。

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震災後になって初めて、福島でフードバンクができた理由

──避難を続ける人に対し、県内の支援団体はどんな取り組みをしていますか?

たとえば、東北地方で広がり始めたフードバンクなどを生かした、困窮者支援のネットワークづくり。被災地では避難によって仕事を失ったり、家族別離で生活基盤がもろくなったりする傾向があります。生活保護を受ければ良いと思われるかもしれませんが、生活保護の制度上、自動車を持っていると保護を受給できないことも多く、職探しや買い物のために車が必要な人たちにとっては不都合が生じています。

震災前には、福島県内にフードバンク事業を行うNPOはありませんでした。農業も漁業も全国有数の産出額を誇り、農村・漁村コミュニティに、困窮者も包摂されていた面があった。でも東日本大震災後に第一次産業の産出額が減った上に、避難で地域コミュニティが崩れたこともあり、食べるのに困る人が出てきています。そういった人たちに向けた緊急食料供給のため、県内初のNPOによるフードバンク事業を立ち上げ、宮城や岩手にもともとあった団体とつなげて、支援してもらいました。

JPFは東日本大震災の被災者支援のために預かった寄付金を活用し、現場で活動するNPO団体などの活動を支援するファンドを立ち上げて、こういった活動に資金助成するかたちでかかわってきました。ほかにも、村外避難している飯館村住民の方たちと一緒に動画を撮って、村外コミュニティづくりも支援してきました。帰還が進むと同時に村外の自治会が解散しているので、帰還を迷う人たちのつながりも大切です。

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高齢者、若者、子育て世帯。それぞれが、帰ってから抱える問題。

──元の地域に戻った人たちは、どんな課題を抱えているのでしょう?

いち早く避難指示を解除した川内村では帰還が進んでいますが、村に戻るか避難先で生活再建するか、の親の選択によって、子どもたちが離れ離れになってしまっています。それに帰還した世帯は高齢者が中心です。高齢者は若い世代と比べて外に出る時間が少なくなりがちで、村内での人間関係づくりが活発化しにくい。

そこで高齢者が先生になって、自然と共存してきた川内村ならではの暮らしの体験と知恵を、村内外の子どもと親に伝える「ふるさと学習」を始めました。村のアイデンティティを確立し、村内外問わない川内村のコミュニティをつくり直す試みです。

帰還者や移住者、だれもが集まれる場も必要です。たとえば、2016年に避難指示が解除された南相馬市小高地区では、駅前のコミュニティスペース運営者とJPFで協力して人が集うにぎやかさを演出し、新しいつながりづくりを進めました。少しずつ、子どもや学生も戻ってきました。同じような動きが浪江町でもあります。

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──帰還は高齢者中心ということですが、若者たちはどんな課題を抱えているのでしょう?

少なくない数の10代、20代も戻ってきています。避難先でいじめられて、ふるさとにしか居場所がないと感じている人もいます。でも帰った先には、若者が活躍できる環境が整っていません。

まず住環境で言えば、たとえば2017年に避難指示が解除された浪江町では、まだインフラ整備の工事が続いていて、企業が作業員向けに賃貸アパートをおさえている。だから家賃が高いんです。

また若者が新しいプロジェクトをしようにも、先立つ資金がありませんから、支援が必要です。浪江町では若手3人による農業プロジェクトが始まっています。JPFは復興庁の「被災者コーディネート事業」を活用してプロジェクトを応援していますが、額は大きくないし年度単位なので、若者たちはなんとか1年単位で食いつないでいる状態。安定した活動を続けてもらうには心もとなく、「若者に手厳しい復興政策だな」と感じます。若者自身の人生の再生と、地域の再生が同時に進むかたちを、つくっていきたいですね。

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浪江町の若者が運営するゲストハウス「あおた荘」の一室を借りて、インタビューを行った

──賃貸アパートの家賃が高いと、子育て世帯の帰還にも影響がありそうです。

双葉郡ではすでに子育て支援コミュニティが立ち上がっているのですが、賃貸の家賃が高く、避難先から元の地域に戻るのをためらう、という話はよく話題にのぼるそうです。「ダンプカーが日中たくさん走り回っているから、幼児を外で遊ばせるには抵抗がある。外で遊べる場所が足りない」という声もあります。他にも保健師が高齢者と子どもの両方を担当しているので忙しい、小児科が近くにない、など子育てに必要なサービスの不足がまだ目立ちます。

県内の住民にとっても、県外避難した人にとっても、放射能への不安は大きな課題です。JPFは、子育て中のお母さんたち自身が県内で放射能測定する活動を支援してきました。専門家の力を借りながら自分たちで正確に測定し、結果もホームページなどで公表しています。実際の数値を知ることで危険を避けるだけでなく、不安も軽減されます。一方で、たまには放射能の心配を全くせずに、子どもたちが思い切り遊べる保養も続ける必要があると思います。

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インフラ整備、大掛かりな産業支援に偏る復興予算。本当は、地域で使い道を決めたい。

──山中さんから見て、復興政策の課題はどんなところでしょうか?

今も被災者復興支援の予算はありますが、その使い道は、交付金事業でわれわれのようなNPOにおりてくる仕組みになっています。これを、よりコミュニティ側の自由度を高める仕組みに変えることが、一番の課題だと思っています。

福島では、避難による家族やコミュニティ崩壊、帰還後の自治体の高齢化、過疎化といった課題が一気に表出したので、住民の危機感が強く、新しい取り組みがたくさんあります。でも今の復興予算は、大規模なインフラ整備やロボットなどの大掛かりな産業支援を重視しています。地域の力を強化するソフト面の活動に、あまりお金が使われていない。コミュニティベースの農業、漁業、困窮者支援など、きめの細かい草の根レベルの活動を強化することこそが、東北被災地全体の再生につながるはずです。

2004年の中越地震後にできた、コミュニティが資金の使い道を決める「新潟県中越大震災復興基金」のような仕組みができないか、と考えています。たとえば一口に被災地の「心のケア」が必要だと言いますが、持続可能で包括的な支援を考えるなら、コミュニティでできる心のケアなどにも国の施策として補助を出すべきです。高齢者や若者の居場所づくりや協働作業は、ある意味で心のケアです。専門家と連携することで、心のケアのセーフティーネットが広がります。

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請戸漁港の防潮堤から、浪江町方面をのぞむ

──原発事故によって避難した人たちに、元の自治体と避難先の自治体の両方に住民票をおける「二重住民票」を導入すべきという議論もありますね。

新しい仕組みとして必要だと思います。避難指示が解除された自治体住民は、元の自治体に戻るか、避難先にとどまるかの選択を迫られています。今は原発避難者特例法によって、避難先自治体から行政サービスを受けられますが、それはあくまで「避難者」としてです。元の地域とのつながりを保ちながら、安定して行政サービスを受けられるようなったら良いと思います。

──原発事故は、県沿岸での漁業など避難指示地域でない地区にも影響を及ぼしました。今年1月末には、東京電力福島第一原発の敷地内にたまる処理済み汚染水の処分方法について、経済産業省の小委員会が海洋放出を有力視する案を出しましたね。

震災後、福島県の沿岸漁業は県によるモニタリングの結果にもとづいた流通販売調査をする「試験操業」として行ってきました。仕事量が減った漁業者に自信を取り戻してもらおうと、子ども対象の漁業体験を開く、試験操業で獲れた魚を地元の人たちに食べてもらおうと鮮魚店を開く、といった活動があります。でも処理水が海洋放出されたら、こういった活動もまた、風評被害で停滞してしまうでしょう。

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福島県いわき市久之浜町のコミュニティ商業施設「浜風きらら」。震災後、加工業者や鮮魚店が閉鎖し、住民が地場魚を買えない状況を変えようと、今年2月に鮮魚店がオープンした。

「長期にわたる複合的な緊急事態」を支えるNPO、政治と連携のゆくえ

──2020年度で終わる予定だった復興庁の業務は、10年間延長される方向です。国政、自治体行政含め政治に求めることは何ですか?

今、福島は「長期にわたる複合的な緊急事態」の真っただ中にあります。突然住んでいた土地を追われ、避難を強いられる。帰るか帰らないかの判断が複雑で、避難は長期間にわたる。「はい、この時点で緊急は終わりです。これからは平時です」というわけにはいかない。そういう意味では、復興期間が延びるのは必然だと思います。

ただ、今後具体的にどんな支援が出るのかはまだ分かりません。この9年間、被災地での復興政策はハード面の整備が延々と続きました。必要なものももちろんありましたが、400キロメートルにわたる防潮堤や、いつ終わるともしれない工事を見ていると、こんなに大々的な整備は住民から求められているのか、と疑問に思います。

それに原発事故の後、再生可能エネルギーを進めると政府は言いながら、なかなか電源構成は変わりません。例えば、浜通りの海上では洋上風力発電が実験的に行われていますが、いつ実用化するのでしょう。良いものならどんどん増やせば良いと思います。様々なことがポーズだけで付け焼刃で、とりあえずやっていているような感じがしてしまいます。一方で福島では、太陽光発電のために広大な土地を使うことに対して、特に放射能で汚染された農地は太陽光パネルにしてしまえば良いといったような意見に対して、農家の方々の心情は複雑だと聞きます。そういった意見も、丁寧に聞いてほしいです。

復興政策の課題をいろいろと話しましたが、被災地では市民やNPOが「大きなうねりには抗えないし、行政には頼れない。自分たちでできることをやりつくそう」という気概が強いので、政治へ期待が薄いのも事実です。

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福島の人と一緒に、これからも。

──とはいえ、フードバンクを通した困窮者支援や心のケア、コミュニティ構築といった、住民の基本ニーズを満たす活動をNPOがしている以上、政治との連携、協力は不可欠になっているのではないでしょうか。

現在いわき市でフードバンク事業をしているNPOは、18歳未満の子どもがいる家庭だけを対象にした、市による食料供給支援の穴を埋めるように、独居の成人を中心に要請を受けています。毎日の活動を通じて、市が行う支援だけではとても足りない、と実感しています。さらに近隣の自治体からも依頼がくるなど、ニーズはどんどん広がっている。

その広がるニーズに対応する資金のために業務委託を受けると、行政の下請けになり、NPOの自律性、機動力が失われてしまう可能性がある。一方で、使える国の補助金を調べても、農水省のフードバンク事業は基本的にフードロス対策を主眼に置いているため、生活困窮支援活動としては使いにくい。あとちょっとのところでの、予算を出す側と現場の考え方のすれ違いによって、支援がうまく機能しないケースが多々あります。NPOと政治がどう連携し、かかわっていくのが良いのか。今後も福島の人たちと一緒に、模索していきたいと思います。

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山中努 TSUTOMU YAMANAKA

1969年生まれ。NPO法人ジャパン・プラットフォーム地域事業部チームリーダー/福島担当。NGOで中国吉林省朝鮮族自治州の英語・日本語支援を経て、東ティモールでプライマリ・ヘルスケア拡大事業のプロジェクト・マネージャーやJICA東ティモール事務所JICA-NGOデスク立ち上げ事業のコーディネーターとして勤務。JPFではアフガニスタンなど海外支援事業を担当後、緊急対応担当を経て、現在は東日本大震災の被災地支援の現場担当。