2018年10月19日
「立憲民主党はベンチャー政党でなきゃいけない」——元「不良少年」の起業家が政治家になった理由
中谷一馬は異色のバックグラウンドの持ち主だ。貧困家庭に生まれ、子どもの頃には生活保護を受けていた時期もあった。思春期には社会に不信感をもち、同じような境遇の仲間と過ごすうちに、不良少年たちのリーダーにもなった。
しかし、やがて政治を志した彼は、まずはダイニング・バーを経営するなど起業家の道を歩み始める。20代前半で後に東証一部に上場したITベンチャー企業の創業役員も経験。その後、27歳で神奈川県議会議員となり、2017年10月、34歳で立憲民主党の国会議員になった。
「叩き上げ」というイメージの中谷だが、実際に言葉を交わすと、とても理知的で柔和な印象を受ける。政策通でもある彼は、ブロック・チェーンなどの新しいテクノロジーに関する豊富な知識や、公正な分配を実現するための経済成長戦略をクールに語ってくれた。
「底辺から這い上がってきた」と自認する中谷が情熱を注ぐのは、「貧困と暴力を根絶するための経済戦略」。日本政治は世襲議員の割合が多い。ともすれば一握りの人たちに政治が独占されているようにもみえる中、社会の実態を知る彼だからこそ描ける未来へのビジョンを聞いた。
少年時代は貧困と暴力がすぐそばにあった
──まずは中谷さんの生い立ちを教えていただけますか?
僕はいわゆる母子世帯の貧困家庭で育ちました。幼い頃は父も一緒に暮らしていたんですが、あまり働かず暴力を振るう人で。あれは3歳位かな、母の前に両手を広げて立ち塞がって「これ以上、お母さんを叩かないであげて」と父に懇願した記憶があります。
僕が10歳、2人の妹が4歳と1歳のときに両親は離婚しました。母は朝から晩まで一所懸命働いてくれましたが、やはり女手一つで3人の子どもを養うのは大変だったようで、常に貧しくて。
──子ども時代には生活保護を受けていた時期もあったと聞きました。
生活保護は世間から厳しい目を向けられることがありますが、受給者自体も社会で生き難い実態がありました。子どもの中でも周囲から「生活保護受けているくせに」と蔑まれたり、病院で「生保家庭だから後でいいよ」と順番を後回しにされたり。「妹たちにはこんな経験させられない」と子どもながらに感じました。
──中学卒業と同時に社会に出た、と聞いています。一時期はいわゆる「不良少年」だったとも聞きました。
はい。高校に行かず社会に出る道を選びましたが、自分自身が人間として未熟だったので、中々雇ってもらえなかったり、せっかく雇ってもらえてもすぐクビになってしまったりと、大きな挫折を経験するんです。
そのうち、周囲に似たような境遇の子が集まるようになりました。中卒で社会に出た子、家庭環境に恵まれていない子。自分たちの置かれた境遇や社会に対する不満をぶつけ合い、支え合い、コミュニティがつくられていきました。俗に不良少年というか、やんちゃ坊主の集団ですね。
不良社会に嫌気が差して──「不平不満を言っても変わらない、自分たちで世の中を良くしていこう」
──不良少年だった時期もあったと聞きましたが、そこから政治を志した転機を聞かせてください。
いわゆる人の道に外れるような、本当に悪いことをする不良ではなかったですよ。当時は、不良漫画の主人公のようなヒーロー像に憧れていたんです。
『特攻の拓』『今日から俺は!!』『湘南純情組!』『ビー・バップ・ハイ・スクール』『カメレオン』…サンデーやマガジンなどに掲載されていた僕等世代の不良少年漫画ですが、これらの漫画に登場する主人公たちは、弱い人を助けるために強い者に立ち向かったり、本当に悪いことをしようとする人たちに対して親身になって寄り添い友達として喝を入れるといった人間としてあたたかい人物像でした。僕も、こうした美学と友達を大切にする不良少年でありたいと思っていました。
でも、実際の不良社会ではその逆も多く、弱い者が更に弱い者を叩くようなことも横行しており、それらのトラブルの仲裁ばかりやるうちに、ついに嫌気が差しました。たった一度の人生ならば、世のため、人のために役立てる人間でありたい、そういう強い気持ちが湧きました。社会の矛盾を感じやすいアンダーグラウンドな環境で育った僕は、次第に「社会を変えたい」と思うようになりました。
不平不満を言っているだけじゃ何も変わらない、自分たちの手で世の中を変えないといけない、と。そんな想いから、政治家になって世の中のおかしいことを正したいと思ったのが、18歳の頃。ただ、周囲にいた人たちからはとても馬鹿にされました。「中卒で政治家になれるわけないだろう。馬鹿じゃないのか。まず高校行けよ。」ただそれでも、あきらめようとは思いませんでした。そして一念発起をして、通信制の高校に進学しました。
──その後は、起業も経験したと聞きました。
夢や目標に対して、自分から逃げるのは辞めようと思ったんです。高校卒業後は、柔道整復師の資格も取りました。母に苦労させないためにも、手に職だけはつけておこうと。
その一方で、都内でバーテンダーとして働きはじめました。政治に携わるなら、政治家、起業家、芸能人などの成功体験のある人が来るような場所に身を置いて研鑽を積みたいと考えました。そこで、お客様の会話についていけるよう、死にものぐるいで勉強しました。
そんな風に努力していると、チャンスは巡ってくるんですね。22歳のときにポンと3千万円出資してくれる方が現れ、渋谷にダイニングバーを開店しました。ありがたいことにお店は最初から軌道に乗り、お店のご縁から、後に東証一部に上場したITベンチャー企業gumiの創業にも参画して、ようやく生活が安定したんです。
そこでひとつ気づいたことがあります。僕、びっくりするくらいケチだったんですよ。後輩にもご飯を奢ったりしなかった。でも、暮らしに余裕が生まれて、初めて募金をした時に気づいたんです。
自分は特別ケチだったわけじゃなくて、人に何かを与えられるほど何も持っていなかっただけなんだ、と気づきました。人のために何かできるようになるためには、まずは自分がしっかりしないといけない。志を体現するために、政治の道に進む決意をより強めました。
27歳で神奈川県議会に初当選。34歳で衆議院議員へ
──生活を成り立たせるため少し回り道もしたけれど、行き着いたのは政治だった、と。政治家になるまでのみちのりはどんなものでしたか?
学生団体をつくって、当時722人いた国会議員に片っ端から連絡を入れ、会ってもらいました。そんな中で、友人に誘われて自民党学生部の副委員長になったんです。当時はまだ政治信条なども定まっていなかったし、断る理由もなかったから。
でも、入ってみたら自分の理想とはだいぶ異なっていて。学生の意見やアイデアを採用するような雰囲気はなかったし、議員や地域の名士の御子息、御令嬢といった毛並みの良い方が多く、僕みたいな叩き上げはあまり必要とされていないように感じました。
──転機はどのようなものでしたか?
悩んでいたときに、かつての民主党所属されていた衆議院議員の方が、「うちの党に来たらいいよ。君みたいな人材を求めてるから」と言ってくださったんです。その方が紹介してくれたのが総理大臣になる前の菅直人さんでした。「本気で政治家になりたいなら大物政治家のところで修行したほうがいい、彼なら君のベンチャーを立ち上げた経験や能力を見て、ちゃんと活かしてくれると思う」と。
菅さんは本当に仕事ぶりをきちんと評価してくれる方で、どうすれば僕が政治家になれるか真剣にアドバイスをしてくれました。7時間、深夜まで話し込んだこともあったほどです。菅さんからの薦めもあり、その後、慶應義塾大学の通信教育課程にも進学しました。
3年半菅さんの下で修行し、総理大臣になるところまで支えた後に、2011年、27歳のときに神奈川県議会議員になりました。その後、一度は衆議院議員選挙に挑みましたが落選し、2017年の10月を迎えました。無所属でたたかう覚悟をしていた時に立憲民主党が誕生して、迷わず参加しました。
平和で豊かな社会を持続させるための成長戦略とは?
──中谷さんの政治家としての理念をキーワードで表すと?
「平和」「豊かさ」「持続性」です。自分が厳しい環境で育ったから、世の中から貧困と暴力を無くしたいという想いがあります。人が物心両面で豊かになったら、貧困と暴力は解消されて平和な社会が持続するはず。
最近ではIoTやAI、ブロック・チェーンなどの新技術を起点とした産業構造の刷新が「第四次産業革命」などと言われています。しかし、テクノロジーの進化による社会の変化というのは、必ずネガティブなインパクトと、ポジティブなインパクトを生み出します。負の側面にもきちんと目を向けつつ、技術革新が生み出すポジティブな要素を、どう国民一人ひとりに行き渡るように制度設計していくかが、政治に求められる構想力です。
今回当選した立憲民主党の新人議員は、このあたりを得意とする人間が多い。僕自身もITベンチャーの経験がありますし、今もデジタルハリウッド大学院でビジネス、クリエイティブ、ICTの3分野を融合させた公共政策の研究を行っています。人工知能、ロボット、IOT、自動運転など新しいテクノロジーをどう活用すれば中小企業や地域、一般市民が豊かになるか、ということをいつも考えています。
立憲民主党は、特定の大きな業界団体の顔を見なくていいので、経済産業分野も思い切った政策を打ち出していけるはず。経済産業政策分野がものすごく伸びれば、党の強みになるんじゃないかと思っています。
「第四次産業革命」を平和で豊かな社会の構築につなげる
──第四次産業革命を平和で豊かな社会の持続的な発展につなげたい、ということでしたが、具体的には?
遅かれ早かれ、いままでの大量生産・大量消費モデルは崩れていきます。そのモデル・チェンジは、福祉や社会政策にも影響するはずなんです。たとえば、地元有権者の御宅訪問時に、ベッドからおじいちゃんが落ちて起き上がれずにいるところに遭遇したことがあります。
たまたま自分が居合わせたので持ち上げられましたが、独居だといちいちケアプラザに電話して助けにきてもらわなければいけませんし、家族もご高齢の場合は持ち上げることは困難です。介護ロボットが進化すればそれらは解決できます。自動運転の一人乗りモビリティが普及すれば、通院も楽になります。早ければ10年後には、それが当たり前の光景になっていくのではないでしょうか。
エネルギーも小規模分散型になっていくし、3Dプリンタの普及によりものづくりもマイクロファクトリー化していきます。そういった社会の変化を予測し、世界の中で日本がどういうポジションでどういったシェアを取っていくか、ビジネス面だけでなく、政治や社会へのインパクトまでを包括的に考えて経済産業政策を練っていきたいと思います。
──具体的に注目している政策分野や国はありますか?
ブロック・チェーン技術を活用すれば行政システムの効率化もできるでしょう。たとえば、先日視察したエストニアでは、ネットで住民票も取れるし、選挙時の投票もできるし、カルテが共有されていてどの病院に行っても適切な医療を受けることができます。エストニアは人口規模も小さく、だからこそ大胆に電子政府に挑戦できている部分はありますが、日本に適用するにはどうしたらよいか、考えてみたい。
「フィックス・マイ・ストリート」というサービスはご存知ですか? スマートフォンのアプリを用いて、道路施設の破損や不法投棄などに気づいた市民が報告し、行政はそれを見て必要に応じた対応を行うという市民と行政が協力して社会を良くする仕組みです。
韓国では、「生活不便スマートフォン通報」という名称でこれらの仕組みが実装されており、市民が「家の前の道路が破損している」と写真を送れば、それを把握した行政が何かしらの対応を検討してくれます。
もちろん、すべての要望に応えられるわけではありません。たとえば、「公園に雑草が茂っているから刈ってほしい」という要望に対して、「年間予算として年二回分しか草刈費用を計上していないので難しいけれど、鎌や軍手を貸し出すことはできるので、ボランティアの有志を募って草刈りしてくれませんか」と逆提案する場合もあります。市民の声をしっかり聞いて対応しつつ、市民一人ひとりの公共への関わりを促すことで共創できるわけです。
──先日、現政権が成長戦略の柱として打ち出したカジノ法案が成立しました。横浜もカジノ候補地のひとつと見られていますが、これについてどう考えていますか?
一言でいうと、悪い冗談のような戦略だと思っています。日本政策投資銀行などが行った調査では、カジノに行きたいと答えた訪日外国人観光客はわずか7%という結果が出ています。つまり、インバウンドには効果がない。隣の韓国でも、外国人観光客向けのカジノで黒字になっているのはソウルだけです。
更に、韓国で国内人が入場できるカンウォンランドのカジノは悲惨な状況になっています。産業が無い地域なので、カジノをつくれば人が集まりお金が落ちて豊かになると考えたのですが、結果はまるで逆。周辺にはギャンプル依存症患者が溢れ、ラブホテルや質屋が並んで治安も風紀も悪くなり、犯罪率は1.8倍になりました。そんなところに子どもを通わせることはできないと、学校も隣町に移転。まったくまちの発展につながらなかったんですね。そんな前例がある中でカジノをつくるのは大反対です。
──ギャンブル依存症の問題もありますが、それ以前に成長戦略としてもナンセンスだということですね。
カジノ事業者は年間一兆円の売上を見込んでいるといいますが、そのお金は誰かがギャンブルで負けたお金です。誰のお金かといえば、先の調査結果を踏まえて考えると、日本人がギャンブルで負けたお金がほとんどということになりますよね。そこに何の意味があるのか。
今回のカジノ法は、民営で、一部の企業が儲かる仕組みになっていて、しかもMGMやサンズのようなアメリカ資本の企業が参入できる。日本人がギャンブルで負けたお金が年間数千億円単位で外資系企業に流れる構図ができたとしたら、それは一体どこの国の経済政策なんですか?と、声を大にして言いたいです。
──先ほど分配するために経済戦略に力を入れるとお話されていましたが、社会保障についてはどんな方針を持っていますか? ご自身の経験からお聞かせください。
いまの政府に足りないものは、社会的弱者に対する共感力と、一般市民の生活に対する想像力だと思っています。お金に困ったことのない方々が、現場を見ずに政策を決め、末端の国民が苦しむ。そういう構造を変えていかなければいけないと思います。
たとえば、現行の生活保護制度では、世帯を分けないと子どもが大学に進学してはいけない決まりになっています。これによって生活保護世帯の子どもは大学に行きにくくなり、結果として格差は固定され、貧困から抜けだすことが難しくなってしまう。
──通常国会では、子供の生活底上げ法案審議の際に、保護世帯のかつての当事者として演説していたのが印象的でした。
また、ひとり親家庭のお母さんたちは、81.8%の人が平均収入は、約200万円に過ぎません。そしてひとり親世帯の相対的貧困率は50.8%に達します。この状態は本人の努力が足りないのではなく、多数のひとり親家庭のお父さん、お母さんが必死に働いてもワーキングプア、貧困状態に陥るという社会的な構造に欠陥があることの証左です。
共働きでも子どもを育てるのが難しい世帯は多くいます。少子化対策を考えるなら、子育て関連の給付金を上げて、普通に働いていれば子どもを産み育てられる社会にしなければいけません。さまざまな調査の末に、僕らは子ども生活底上げ法案を提出しましたが、残念ながら今の政府に取り入れてもらうことはできませんでした。
議会は社会の縮図であるべきです。だったら僕みたいな貧しい環境で育った議員もいなくちゃ。アッパー層の暮らししか知らない人が、社会的弱者のための政策に実現しようとしても残念ながら机上の空論になりがちです。
自分の強みは、生活保護受給者から総理大臣まで、幅広い層の人々の身近で育ってきたこと。この強みを活かして、一般市民、社会的弱者など広く国民の声を国会に届けていきたいと思います。
立憲民主党はベンチャー政党でなきゃ
──立憲民主党をどういう政党にしていきたいと考えていますか?
ひとことでいうなら「ベンチャー政党」でなきゃいけない。いまの政治に不満を持っている全ての人の受け皿になれるような新しい取り組みを常に前に進める政党にしていければと思っています。
なぜ同性同士で結婚できないのか、なぜ普通に働いて普通に食べていくことがこんなにも難しいのか、なぜこれだけ話題になっている待機児童問題や介護問題が解決していかないのか。不満を抱いている人の声をしっかり代弁し、政策に反映していく。多様性を重んじ、平和で豊かな社会をつくる政党でありたいですね。
──党の雰囲気はどうでしょう?
立憲民主党になってからは、政局的なストレスや足を引っ張られるようなことはなくなりました。立憲民主党には、良い意味でも悪い意味でもピュアな人たちが集まっています。権力闘争や根回しはあまり得意ではないし、好きでもない。でも譲れない信念があって、不器用だけどそれを前に進めようと力を注ぐ人たちが多い。
こういう純粋に国民生活をより良くするために、政策を磨き実行していくことに集中しようとする人たちに囲まれた環境はとても居心地が良いです。
立憲では、新人議員が「社会を良くするためにはこういう政策が必要だ」と提言すると、先輩議員はどうやってそれを実現していくかと一緒に考えてくれます。立場に関係なくいいアイデアは採用し、本気で市民の声を聞いて、豊かな社会をつくろうと思っている。新しいことに取り組むことをためらわない。そういう立憲の文化が、僕はものすごく好きですね。
──立憲民主党はパートナーズ制度など、政治と国民の関係そのものを変えようとしています。中谷さんからみていても、有権者との関係も変わりましたか?
そうかもしれないです。ありがたいのは、今の僕らの姿勢を評価してくれる有権者がたくさんいるということ。そのおかげで、10代からの夢目標だった国会の舞台で議員として活動できています。皆様の期待に答えられるよう、結果を出していきたいと思います。
中谷一馬 KAZUMA NAKATANI
1983年生 神奈川県育ち。貧しい母子家庭で育つ。厳しい経済環境で育ったことから、経済的な自立に焦り、中学卒業後、社会に出るも挫折。しかし「何か違う」と思い直し、通信制高校に復学。卒業後、柔道整復師の資格を取得。 その傍ら、東証一部に上場したIT企業gumiを創業し、役員として経営に参画。 その過程において、社会を変革する必要性を感じ、人の役に立つ人生を歩もうと政界進出を決意。 第94代内閣総理大臣 菅直人の秘書を務める。 27歳で神奈川県議会における県政史上最年少議員として当選。在職中に、世界経済フォーラムのGlobal Shapers(U33日本代表)に選出。またマニフェスト大賞にて、一番優れた政策を提言した議員に贈られる最優秀政策提言賞を受賞。 現在は、立憲民主党 衆議院議員(神奈川7区 横浜市港北区・都筑区)として活動中。