~立憲的憲法論議~
2018年7月19日
立憲民主党

◎ 基本姿勢

「国家権力の正当性の根拠は憲法にあり、あらゆる国家権力は憲法によって制約、拘束される。」という立憲主義を守り回復させる。憲法に関する議論は、立憲主義をより深化・徹底する観点から進める。
日本国憲法を一切改定しないという立場は採らない。立憲主義に基づき権力を制約し、国民の権利の拡大に寄与するとの観点から、憲法に限らず、関連法も含め、国民にとって真に必要な改定があるならば、積極的に議論、検討する。
いわゆる護憲と改憲の二元論とは異なる、「立憲的憲法論議」を基本スタンスとする。

○ いわゆる安全保障法制について

日本国憲法9条は、平和主義の理念に基づき、個別的自衛権の行使を容認する一方、日本が攻撃されていない場合の集団的自衛権行使は認めていない。この解釈は、自衛権行使の限界が明確で、内容的にも適切なものである。また、この解釈は、政府みずからが幾多の国会答弁などを通じて積み重ね、規範性を持つまで定着したものである(いわゆる47年見解。巻末参照)。
集団的自衛権の一部の行使を容認した閣議決定及び安全保障法制は、憲法違反であり、憲法によって制約される当事者である内閣が、みずから積み重ねてきた解釈を論理的整合性なく変更するものであり、立憲主義に反する。

○ いわゆる自衛隊加憲論について

現行の憲法9条を残し、自衛隊を明記する規定を追加することには、以下の理由により反対する。

1 「後法は前法に優越する」という法解釈の基本原則により、9条1項2項の規定が空文化する注1。この場合、自衛隊の権限は法律に委ねられ、憲法上は、いわゆるフルスペックの集団的自衛権行使が可能となりかねない。これでは、専守防衛を旨とした平和主義という日本国憲法の基本原理が覆る。
2 現在の安全保障法制を前提に自衛隊を明記すれば、少なくとも集団的自衛権の一部行使容認を追認することになる。集団的自衛権の行使要件注2は、広範かつ曖昧であり、専守防衛を旨とした平和主義という日本国憲法の基本原理に反する。
3 権力が立憲主義に反しても、事後的に追認することで正当化される前例となり、権力を拘束するという立憲主義そのものが空洞化する。

注1 従前の解釈を維持しようとするならば、明確かつ詳細にそれを明記する必要がある。これは相当大部かつ厳格な規定が必要となる。また、その際には、集団的自衛権一部行使容認という立憲主義違反について、容認する規定とするのか、否定する規定とするのか、明確にされなければならない。

注2 我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」という要件

○ 文民統制について

文民統制(シビリアンコントロール)とは、政治と軍事を分離し、軍事に対する政治の優越を確保すること、その政治が民主主義の原則に基づいていることを基本原則とする。
国の防衛に関する事務は憲法73条にいう「他の一般行政事務」に属し、内閣は国会に対して連帯して責任を負っているので、立憲的統制の核心は国会による統制である。
ところで、憲法66条2項は特に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」としている注3。これは、実力組織はとかく暴走しがちであり、その行使にあたっては、制服組の判断によるのではなく、背広組の判断を優越させる趣旨である。
南スーダンPKOの防衛省の日報に関しては、発見から大臣への報告に1か月も要しているが、このことに限らず、現場からの報告のタイミングがずれれば大臣の適時適切な判断はできなくなるおそれがある。また、イラクの日報では、大臣の指示に従わず、制服組の判断で「存在しない」ことにしていたのであるとすれば、文民条項の趣旨を損ねる。
また、南スーダン日報の開示請求が行われた時から、防衛省が日報の「破棄を確認」し、不開示を決定したのは、南スーダンPKOに参加する自衛隊部隊の派遣延長の是非、安全保障関連法に基づく新任務「駆け付け警護」を付与すべきかどうかが、焦点となっていた時期である。この日報がきちんと公開され、現地情勢が明らかになっていれば、派遣延長や新任務付与の決定にも影響を与えていたはずであり、国会による立憲的統制に対して背を向けるものである。
文民統制に関する憲法上の議論は、自衛隊という実力組織に対する評価の問題もあり、これまで希薄であったことは否定できない。文民統制のあり方について、憲法上の議論の必要性を確認する注4

注3 日本国憲法制定時には、憲法にこのような条項を定めた国はなく、閣僚の文民規定を憲法に規定しているのは、現在でも韓国に例を見る程度。

注4 ドイツ基本法では、憲法としては極めて詳細なシビリアン・コントロール条項が規定さている。

○ 臨時会召集要求について

憲法53条後段には、衆議院か参議院のいずれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならないとされているが、期限が切られていない。
第194国会は、3ケ月も前に野党が要求していたにもかかわらず放置され、要求テーマに関する審議はまったく行われず、臨時会冒頭での解散が行われた。このような臨時会の召集の仕方は憲法53条後段に基づくものではなく、同条前段の内閣の発意に基づくものとみるべきで注5、少数会派の要求を無視した違憲状態の下で解散が行われたと言える注6
衆議院総選挙後の特別会は選挙の日から30日以内に召集しなければならないことが憲法54条に規定されており、このバランスからも、臨時会についても期限を記述すべきかどうかについての議論を進める。

注5 政府は要求書送付の日から召集日の前日までの期間は98日間としているが、53条後段の趣旨からすると、要求に応じた審議ができるようになったのは特別会であり、要求書送付日から特別会の召集日(平29.11.1)前日までの期間は実に132日間。

注6 臨時会の召集要求書提出後、臨時会の冒頭で解散が行われたのは、第105国会(昭和61年、第2次中曽根康弘内閣)、第137国会(平成8年、第1次橋本龍太郎内閣)についで3回目。

○ 衆議院の解散について

衆議院の解散については、内閣不信任案の可決あるいは信任案の否決の場合についての規定が69条にあるのみで、実質的な解散権が内閣にあることすら明文で規定されていない。このことから、第2回の解散以来、天皇の国事行為に関する7条を理由に解散が行われている。
解散は、選挙で選ばれている衆議院議員を任期満了前にその任期を終わらせるものである以上、相応の理由が必要なはずで、大義なき解散は許されることではない。しかし実際には、政権は自身に都合のよい時期に自由に解散権を行使できてしまっている。
そもそも議会の解散制度は、君主側が民選議会に対する抑制手段として行使してきたという歴史があり、民主政治の発達とともに解散権の行使は抑制されるようになってきている注7。内閣が恣意的にタイミングを選べるような運用は是正されるべきであり、この点についての憲法論議を進める。

注7 イギリスでも、2011年議会任期固定法が成立し、下院の解散を行うことには縛りがかかった。

○ 国政調査権について

憲法62条は、国政調査権を両議院の権能とし、証人の出頭・証言、記録の提出を求めることができるとしている。具体的には、特別の院議決定に基づいて調査特別委員会を設ける方法、常任委員会による調査要求を議長が承認する方法などにより権能が行使される注8
一般に、国政調査権は国会の権能を有効に行使するための補助的手段であると説かれるが(いわゆる補助的権能説)、国会の権能は立法権にとどまらず、予算審議、行政監視など広範に及び、行政国家化した現代において、立憲主義の観点からは議会による行政統制の重要な手段である。
にもかかわらず、議院内閣制の下では、議会の多数派が内閣を構成することになるので、両院において行政監視のためにこれを行使しようとした場合、多数決原理に基づき、与党が合意しない限りこの権能は発動しえないということになり、実効性に疑問がある。この欠陥を埋めるべく、平成10年に衆議院規則を改正し、予備的調査制度が衆議院において採用された注9(衆議院規則56条の2、56条の3、86条の2)。
しかし、予備的調査制度は委員会による国政調査権の行使とは異なり、強制力を伴うものではない。そもそも国政調査権そのものが多数決原理でよいのかどうかについて注10、議論を進める。

注8 森友学園への国有地処分に関する、①財務省決裁文書の国会提出要求は、平成29年3月2日の参議院予算委員会における委員からの提出要求を踏まえ予算委員長より政府に提出要求がなされたものであり(参議院委員会先例により憲法62条に定める国政調査権の行使である国会法第104条による成規の手続を省略して行われたもの)、②会計検査院への検査及び報告要請は、3月6日に参議院から、憲法第62条に基づく国政調査権の行使として国会法第105条の規定に基づきなされたものである。(平成30年3月28日 参議院事務総長答弁)

注9 委員会は、審査・調査のため事務局の調査局長・法制局長に対して予備的調査を行い、報告書を提出するよう命じることができる。この場合、議員40名以上の要請で命令を発するよう書面を議長に提出することができる。

注10 ドイツ基本法44条では、議員の4分の1の申し立てで主として政府・行政の汚職・不正調査を目的とする調査委員会を設置できるとされている。

○ 知る権利などについて

基本的人権の中でも、表現の自由は特に重要な人権であるとされている。たとえば、権力の行使に行き過ぎがあったとしても、表現の自由が確保されていればそれを是正することができるからである。すなわち、表現の自由は、説得と投票箱の過程、民主主義のプロセスを担保する重要な人権ということができる。
しかし、表現の自由が民主主義のプロセスにとって有効に機能するためには、その前提として十分な情報に接していることが必要である。不十分な情報や誤った情報に基づいて議論を重ねても、正しい結論を得ることはできない。
南スーダンPKOの防衛省の日報やイラクの日報のように、破棄していたと国会に対して説明されていたものが1年後に「発見」されるようなずさんな公文書管理や、加計学園の問題では、政権に不都合な情報を怪文書扱いしたり、森友学園への国有地処分を巡る事件において、決裁文書の改ざん等により国政調査権が蹂躙されるという議会制民主主義の存立にもかかわる空前の事態が生じた。
公文書管理や情報公開の在り方は、民主主義の前提となる「知る権利」を担保するものである。「知る権利」を回復、充足するため、公文書管理の在り方、電子決裁の推進等について議論を進める。

○ LGBTの人権、特に同性婚と憲法24条について

LGBTに関しては、教育の現場や職場をはじめとして、あらゆる場面での差別の解消等、人権の確保・確立が必要である。
ところで、安倍総理は、「現行憲法の下では、同性カップルの婚姻の成立を認めることは想定されていない」、「同性婚を認めるために憲法改正を検討すべきか否かは、我が国の家庭のあり方の根幹に関わる問題で、極めて慎重な検討を要する」と述べている注11
この点、憲法24条1項は、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」とされているため、同性どうしの結婚はできないようにも読める。
しかしこの条文は、結婚相手を強制的に親が決めたり、戸主や親の承諾を必要とする戦前の「家」制度から注12、婚姻をするかどうか、婚姻をだれとするかを本人の自由意思に解放する趣旨である。そうだとすると、異性婚は両性の合意のみによって成立することを定めたものと制限的に理解すべきであり、同性婚について禁止する規範ではないと考える注13
憲法の学説でも、同性婚については禁止されていないが、これを採用するかどうかは立法裁量であるという考え方が一般的なようである。
しかし、憲法24条2項が「配偶者の選択……婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」とし、憲法13条が個人の尊厳と幸福追求の権利を定め、その内実として人格的生存に不可欠な自己決定権が保障されているとの理解の下では、むしろ、同性婚も憲法上の保障を受けるとの解釈も有力に主張されている。この立場に立つと、その法的整備をすることは単なる立法裁量ではなく、立法府としての責務となる。
したがって、憲法24条1項の文理上の疑念を解消するのみならず、憲法上の保障であることを明らかにするとすれば、文言を改めることが望ましいといえる。この点、立法政策の問題ととらえるべきか、憲法上の保障のレベルの問題ととらえるべきかについて、議論を進める。
なお、いずれの立場に立つとしても、同性婚を可能とするよう、法的整備をすることに憲法上の支障はないものと認識する。

注11 2015年2月18日、参議院本会議での答弁。

注12 明治民法では、家族の婚姻には戸主の同意が必要であり、一定の年齢(男は30歳、女は25歳)未満の子の婚姻には父母の同意が必要であった。

注13 1989年にデンマークで「登録パートナーシップ制度」が採用され、2000年にオランダが同性間の婚姻を容認して以来、同性間の婚姻を容認する国が増加している。ベルギー(2003年)、スペイン(2005年)、カナダ(2005年)、南アフリカ(2006年)、ノルウェー(2008年)、スウェーデン(2009年)、ポルトガル(2010年)、アイスランド(2010年)、アルゼンチン(2010年)、デンマーク(2012年)、ウルグアイ(2013年)、ニュージーランド(2013年)、フランス(2013年)、ブラジル(2013年)、英国(イングランド及びウェールズ)(2013年)、ルクセンブルク(2015年)、アイルランド(2015年)、フィンランド(2017年)、マルタ(2017年)、ドイツ(2017年)、オーストラリア(2017年)など。

○ 高等教育の無償化について

国際人権規約A規約13条2(b)及び(c)により、中等教育及び高等教育を漸進的に無償とすることが国家の責務とされている。日本政府は長くこの条項を留保していたが、民主党政権下の平成24年9月11日に留保を撤回する旨、国連事務総長に通告した。
憲法98条2項注14は「日本国が締結した条約及び確立された国際法規」を誠実に遵守することを必要としているので、我が国においては既に「高等教育の漸進的無償化」はすでに国内法上遵守すべき、政府の法的義務となっていると考えられ、憲法改正の対象として議論する意義は見出しがたい。

【参 考】

経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約)第13条2(b)及び(c)

(b) 種々の形態の中等教育(技術的及び職業的中等教育含む。)は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、一般的に利用可能であり、かつ、すべての者に対して機会が与えられるものとすること。
(c) 高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること。

日本国憲法第98条2項

日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

注14 この規定は、総司令部案にも、第90帝国議会に提出された帝国憲法改正案にもなく、衆議院における審議過程で、わが国の主体的判断で立案・成立したものである(佐藤幸治著「日本国憲法論」85頁〔成文堂〕2011年)。

○ 国民投票について

憲法改正は国民の「承認」によって成立するが、承認の要件である「過半数」の意義について、憲法改正国民投票法は「有効投票総数」の過半数としている注15
このことに関して、いかに投票率が低くても憲法改正が実現するのは問題であり、「最低投票率」を導入すべきとの意見もある注16
しかし、最低投票率の制度には、①ボイコット運動を誘発する可能性があること注17、②専門的・技術的な憲法改正で、必ずしも高い投票率を期待できない場合も存在すること、③最低投票率を満たしたほうが低い民意を反映するという民意のパラドックス注18の可能性があることから、制度としての弊害が大きいと考える。
憲法改正の正当性に疑義が生じないようにするのであれば、投票率を問題とするのではなく、絶対得票率について検討されるべきである注19
ただしこの場合も、憲法を法律で書き換えることができないはずであるところ、国民投票によって「憲法となるべきとされた規範」を法律で無効としてしまう疑いがある。実際、最低投票率ないし絶対得票率を定めている多くの国で憲法上の根拠条文を置いている注20
したがって、絶対得票率を定めるのであれば、憲法96条に明記することが望ましい。
憲法改正国民投票法成立後、大阪市で特別区設置法に基づく住民投票、英国でEU離脱の国民投票が行われ、直接民主制についての新たな知見が形成された。特に、テレビのスポットCMについて、現在の国民投票法の仕組みが適切かどうかについて、検討を行う。
また、引き続き、憲法改正国民投票法の附則の規定に従い、一般的国民投票制度について、その意義及び必要性についての検討を行う。なお、衆議院の解散を制限した場合、総選挙後に国政に関する重大な問題が生じ、任期満了を待たずに国民の意思を問うべき必要が生じた場合、一般的国民投票制度が有効な手段となる余地があり、この観点からの検討も行う。

注15 一般に、憲法は強制投票制を採用していないことから、棄権の自由もあるものと考えられ、棄権した者を投票に行って反対票を投じたものと同様に考えることは不合理であり(「有権者総数」は採用しない)、また、無効票をすべて反対票と擬制することは適切でない(「投票者総数」は採用しない)と考えられたからである。

注16 「日本国憲法の改正手続に関する法律案に対する附帯決議」(平成19年5月11日参議院日本国憲法に関する調査特別委員会)

注17 ボイコット運動が起こっている状況の下では、投票に行くこと自体が「裏切り行為」となり、実質的に投票の秘密(憲法15条4項)が担保されない事態となるおそれがある。

注18 たとえば、最低投票率を50%とした場合、45%の投票率で賛成80%の場合、全体の36%の賛成があるにもかかわらず不成立。60%の投票率で賛成50%の場合、全体の30%の賛成で成立。

注19 仮に、有権者の半数が投票に行き、その過半数の賛成は必要だと考えたとすると、絶対得票率は25%となる。これに届かないようにしようと、ボイコット運動をしようとしても、75%の有権者に働きかけなければならず、事実上不可能。したがって、ボイコット運動を誘発する可能性は著しく低くなる。

注20 憲法に最低投票率を設けている国は韓国、スロバキア、ポーランド、ロシア、セルビア、ウズベキスタン、カザフスタン、ベラルーシ(有権者の50%以上)、コロンビア(有権者の25%以上)、憲法に絶対得票率を設けている国はデンマーク(有権者の40%以上)、ウルグアイ(有権者の35%以上)。これに対し、法律で最低投票率を設けている国はパラグアイ(有権者の51%以上)、絶対得票率を定めている国はウガンダ(有権者の過半数)、ペルー(有権者の30%以上)が散見されるにすぎない。

《参 考》

参議院決算委員会要求資料「集団的自衛権と憲法の関係」(いわゆる47年見解)

国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されるという地位を有しているものとされており、国際連合憲章第51条、日本国との平和条約第5条、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約前文並びに日本国とソビエト社会主義共和国連邦との共同宣言3第2段の規定は、この国際法の原則を宣明したものと思われる。そして、わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。 ところで、政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されないとの立場にたっているが、これは次のような考え方に基づくものである。 憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が……平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。

内閣法制局・昭和47年10月14日
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