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2018年6月3日

中野サンプラザに流れるそのスピリットを守りたい 「中野経済新聞」編集長の政治への挑戦

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2020年のオリンピックに向け、東京各地で慌ただしく再開発が行われている。しかし、その開発のあり方が地元住民の目線で行われているかといえば、必ずしもそうではないようだ。6月3日告示・6月10日投開票の中野区補欠選挙に立候補する杉山司は、中野でIT企業を経営するかたわら、地元のネットニュース・中野経済新聞の編集長をつとめてきた。実は中野でも、駅前の中野サンプラザを取り壊し、1万人規模のアリーナをつくる再開発構想が着々と進んでいるという。「このままでは中野が中野らしさを失ってしまう」と語る杉山は、20年近く住み続ける中野への愛情に突き動かされ、今回の立候補を決めた。

*このインタビュー記事は、過去に掲載したものを再編集しアップしています。

寿司屋のせがれが中野でIT企業の社長になるまで

──自己紹介をお願いします。

杉山司と申します。WEB製作やITコンサルティングを行う会社を経営しながら、地域のビジネス&カルチャーニュースを配信する「みんなの経済新聞ネットワーク」の中野区版、「中野経済新聞」の編集長をしています。

──出身はどちらですか?

愛知県の岡崎市生まれ、豊田市育ちです。父親が元々目黒区で寿司職人をしていたんですが、母親と出会い、僕が生まれる前に母親の実家のある愛知へ越したそうです。だから僕は豊田市で、寿司屋のせがれとして育ちました。母親は美術教師だったんですが、その影響で子どもの頃は絵ばかり描いていましたね。建築・インテリアやプロダクトデザイン、トヨタのカーデザインなどの仕事に憧れていたものの、高校時代はサッカーに打ち込みすぎてデザインを学べる大学には入れず、結果的に親の勧めもあって山梨大学の電気科に進学しました。でも、入部したアメフト部で、ロゴマークやスタジャンをデザインするなど、相変わらず絵を描いたり、モノをデザインしたりするのは好きでした。実はいまでも、母校のアメフト部では僕がデザインしたロゴが使われています。

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──では上京したのは就職のタイミングですか?

そうです。渋谷のIT企業に就職しました。周囲は研究職に進む人が多かったのですが、実は僕、白衣を着るのが嫌だったんです。「白衣つながり」というわけではないですが、実家が寿司屋で親父も白衣を着てるでしょ?(笑) 客商売だからみんなが家族で出かけている土日や連休に遊んでもらえなかったし、小学生の頃から配達を手伝ったりしていましたが、子どもながらに寂しくて。だから割烹着を思い出す白衣は着たくなかったというか、サラリーマンに対する憧れがあったんです。それで、せっかくなら社長になりたいという野望があったのもあり、IT企業へ。当時の渋谷は、今や業界では有名は人たちばかりがいて、とにかく活気がありましたね。

──杉山さん自身、会社員時代はやり手の営業マンだったとの話を聞きましたが。

これはあまり人には話してないんですが、僕22歳の時に交通事故で医者からは「二度と歩けない」と言われるほどの重傷を負って、左足には150針の縫い痕があります。でも、その後、手術やリハビリを経て奇跡的に回復して歩けるようになって。だから上京した時は一度死んで生まれ変わったような心持ちで、がむしゃらに働きました。結果、自分で言うのも何ですが出世も早く、最年少で営業統括部長になりました。忙しく働いていましたが、子どもが生まれて、「このままでは子育てができない」と思いました。共働きなら、50:50で子どもを見るのが当然ですよね。しかし、自分の中に「これだけ出世して稼いでいるんだから、比重を軽くしてもらってもいいだろう」という気持ちが芽生えてしまって。妻と対等なパートナーでいるために、会社を辞めて起業しました。自分で会社をつくれば、時間の自由がききますから。日本と中国とのビジネスを橋渡しする仕事で、上海に支社もつくりました。

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──いつ頃から中野に住み始めたんですか?

もう20年ほど前、起業する前のサラリーマン時代からです。実は上京した当初は、中央線のもっと西の方に住んでいて。その時、総武線で帰ろうとすると、「中野まで」っていう中野止まりの電車が多かったんですよ。それで住みたいなあって興味を持ち始めて(笑) その時住んでいたマンションを更新するタイミングで、思い切って東中野へ。その時は単身だったんですが、その後妻と結婚してからも、ずっと東中野です。

「杉山さん、海外のほうばかり向いてないで、中野の面倒も見てよ」と言われ、ネットニュースの編集長へ

──中野経済新聞を始めた経緯を教えてください。

僕は起業してからずっと中野を拠点にビジネスをしています。それで、中野コンテンツネットワーク協会という、ITを使って中野の地域活性をする団体が立ち上がるときに、ある人から「杉山さん、海外のほうばかり向いてないで、中野の面倒も見てよ」と声をかけられたんです。中野には会社勤めのときから十年以上住んでいたけれど、確かに何も知らなかった。これまで培ってきたIT分野の知識やネットワークを中野に活かせたらと思い参画することにしました。その集会の中で、当時の区長から「中野はこれから再開発によってどんどん変わっていくから、いまの中野をアーカイブする人が必要だ」という話を聞いたんです。「じゃあ自分が」と手を挙げ、2012年に中野経済新聞を創刊しました。無報酬で、取材も撮影も執筆も全てひとりで行っています。

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取材中「せっかくだから中野を案内しますよ」ということになり、中野駅周辺を街歩きしながら話を聞いた。有名な商店街から細い路地まで、次々にその場所の特色と杉山の想い入れが口をついて出てくる。

──中野を取材するようになり、どんな感想を抱きましたか?

それはもう「中野ってめちゃくちゃ面白いなあ!」に尽きます。中野ブロードウェイに百軒横丁、セントラルパーク。商業カラオケ発祥の地でもあるし、黄色と黒のスケッチブックで有名なマルマンや、カードゲームやキャラクターグッズを制作するブシロードの本社もある。歴史的な部分を調べていくと、中野には1972年の沖縄返還より前から沖縄の人たちが集まる「沖縄郷土の家」があったことがわかりました。だから中野駅前には沖縄料理店が多いし、外から来た人を受け入れる文化が根づいているんです。お笑い芸人さんは先輩から、「上京するならまずは中野に住め」と言われるそうですよ。面白い人や店にたくさん出会えるし、すぐに仲良くなれるから、と。ずっとグローバルに働いてきたけど、取材するうちにすっかりローカルの魅力にハマってしまいました。

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中野経済新聞の腕章と取材時にいつも使う手帳。

中野は「何かが始まる街」でありながら、「誰もがいつでも戻ってこれる街」

──取材して感じる中野の魅力を教えてください。

秋葉原がオタクのまち、池袋が乙女のまちだとすると、中野はマニアのまちだと思います。規模は小さくてもコンセプトが尖っていて、その世界では日本一だったり、全国にひとつしかなかったりするお店が多いんです。たとえば、「歪み系エフェクター」だけを集めた専門店や「マグロのパラダイス」とか。そんな中野独特の文化に惹かれて、「中野ブロードウェイマニア」や「中野つけ麺マニア」といったフェイスブックページを20ほど運営しています。マニアの文化を盛り上げて経済を動かして、子どもたちが暮らしやすいまちにしていきたいなと思っています。

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──杉山さんにとっての中野の魅力ってなんですか?

やっぱり集まっている店も、住民も、みんな個性が強くて、多様性があるところかな。芸能人の方のいきつけのお店がたくさんあって、テレビでよく観る顔をそこかしこで見かけるのに、街のみんなは普通に常連客の一人として接してる。度量が広いというか、温かいんです。さっきのお笑い芸人の方々の話でいうと、売れない時期は中野に住んでいて、売れると中目黒なんかのオシャレなところに引っ越して、そして売れなくなるとまた中野に戻ってくる(笑) でも「それでいい」というか「それがいい」んです。中野は「何かが始まる街」でありながら、「誰もがいつでも戻ってこれる街」でもある。

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プライベートでもよく通う昭和新道商店街の遊歩道脇のベンチで。

再開発で中野サンプラザが取り壊される?

──今回の立候補を決めたきっかけは?

桜です。中野は桜の名所がたくさんあり、毎春花見客で賑わいます。特に、東中野駅西側の線路沿いには桜の下に菜の花も咲いていて、中央線や総武線と一緒に写真に収めようという撮り鉄の方も多いんです。しかし、その桜が老木ということで突然十数本切られてしまいました。

倒木の危険を考えたら伐採は仕方ないにしても、植樹しながら少しずつ順番に伐採していくなど、桜並木を残す方法はあるはずです。この美しい風景を子どもたちに受け継ぎたいと、住民もバリケードを組んで声を挙げていました。そうした意見を全く聴こうとしない行政や、行政を動かすことができない区議会議員をもどかしく思ったんです。ならばペンの力で……と言いたいところですが、みんなの経済新聞には「ハッピー・ニュースを扱う」という編集方針があるため、そうした地域の軋轢を報じるのは難しい。そこで自分が政治家になり、「軋轢があったけれど、みんなで話し合い、行政と住民の協力のもとで落としどころが探られ、桜並木が守られた」というハッピー・ニュースをつくりたいと考えました。取材を通して中野の魅力と課題を知ることで、より深く中野に関わりたいと思うようになったんです。

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街を歩いていると、ひっきりなしに声をかけられる。選挙の候補者とその支援者というよりは、普段から付き合いのある地元の仲間という感じの雰囲気だ。

──中野が現在直面している課題を教えてください。

実は、再開発をして中野駅北口に1万人アリーナをつくろう、という計画があります。賑わいを創出することはもちろん大事ですが、中野駅の改札の整備を行うのが先ではないでしょうか。既に、1本電車が遅れたら将棋倒しが起きそうな混雑ぶりで、危険な状態です。エレベーターもなく、車椅子やベビーカーの方は苦労しています。僕自身、さっき話したように20代の時は事故で車椅子の生活をしていました。ハンディキャップを抱える方々への配慮は、JRに任せきりにするのではなく、中野区として優先順位を上げて取り組むべき問題だと考えています。

結局、現状の計画は、中野サンプラザと中野区役所の跡地を民間に売却し、あとはよろしく、といったものなんです。このまま中野駅前を民間に全て任せてしまっては、中野らしさが失われてしまうのではと懸念しています。

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──数年前の下北沢の再開発も、住民からの反発が強かったです。中野の再開発の動きで一番気になるのはどの部分ですか?

やっぱり中野サンプラザの取り壊しです。もちろん中野サンプラザは確かに築45年経っていますから、老朽化の問題もある。しかもあの三角形。フロア面積と収益率のことを考えれば、たぶんあんなに贅沢に空間を使った建築物は、この先もう建てられないでしょう。でも、あの三角形の外観は、「儲けることだけが街の価値じゃないよね。なにか面白いことしたいよね」という、中野の遊び心の象徴なんです。中野サンプラザを嫌いな区民はいないと思います。

──とはいえ、安全面からいって再開発やむなし、という見方もあるかと思いますが。

もちろん、防災の観点から言っても、街全体の発展の観点から言っても、区民のコンセンサスをきちんと得て、熟議の上に取り壊しと再開発が進められるのなら、僕はそれは尊重したい。しかし、オリンピックの再開発のブームに乗り遅れまいと、その街に住む住民を無視して物事が進められていく現状のやり方はおかしい。少なくとも、中野サンプラザに脈々と流れる中野の区民の遊び心というか、そのスピリットを、再開発後の街づくりにどう継承していくかが問われないといけない。

再開発という課題は、その街の歴史を深く知り、住民目線のビジョンが語ることのできる政治家じゃないと、絶対に向き合えないと思うんです。安全面を考えれば再開発自体は必要ですが、本当に区民は中野を六本木ヒルズのような街にしたいと思っているのか。僕はニュースの編集者として街の人たちと触れ合ってて、とてもそうは思えない。もっと地元住民の目線を取り入れたまちづくりにしていくことが重要です。

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杉山いわく、中野でもっともディープなスポットのひとつである中野ブロードウェイ東側に位置する「ワールド会館」前で。

国会議員なんて目指すつもりない。ボトムアップで、政治はもっと身近に、面白くなれる

──立憲民主党を選んだ理由は?

中野区は自民党さん・公明党さんが強い区です。与党の方々だけで過半数を超えているため、どうしても議論なしに全てが進んでいきます。再開発、大型施設の建築などに絡むものは、特にそう感じます。多数派を相手に再開発の方向性を変えるには、無所属では力が及びません。議会でちゃんと議論できる野党に所属したいと考え、立憲民主党での出馬を決めました。そうじゃないと、僕がさっき言った「中野の中野らしさをまもる」ことはできないって思ったんです。

──じゃあ立憲民主党の理念の中では、とくに「ボトムアップ」に共感するということですか?

うん。なによりボトッムアップ。「市町村区議会議員から始めて、次は県議か都議、そして最後は国会議員へ…」みたいな野心を胸に秘めた新人候補の方もいらっしゃると思いますけれど、僕、国会議員なんて目指すつもりないです(笑) 僕は大好きな中野のいい部分を継承しながら、そして区民の心に寄り添いながら徐々に誇れる街にしていきたい。その仕事を託せる議員がいないように感じたから、自分が出馬する。だから僕の政治的なビジョンは徹頭徹尾、中野目線です。

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──具体的に議会をこう変えたい、というのはありますか?

当選したら、まずは議会の見える化をしたい。というか、とにかく議会とみんなとの距離を近づけて、面白くしたいんです。中野議会の開催情報はウェブサイトに載っていますが、よほど政治に関心と知識がある人でないとわかりづらい。住民参加型のまちづくりを実現する第一歩として、議論の内容がわかるような情報発信をして、傍聴者を増やしたい。そしたら筋書きありきの議会運営なんてできなくなるでしょう。メディアとしての経験を活かし、住民と議会の距離をぐっと近づけたいと考えています。

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杉山司 TSUKASA SUGIYAMA

1970年愛知県生まれ。山梨大学工学部電気工学科を卒業した後、日本システムウエア株式会社に入社し中野に住み始める。2010年に桔梗ICTパートナーズ株式会社を設立、2012年に中野経済新聞を創刊。中野区観光協会理事、中野コンテンツネットワーク協会理事、中野ブロードウェイ応援大使。

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