パリテ・ナウ

「誰もが自分の可能性に自由に手を伸ばせる社会を」——アフリカから帰国した元国連職員が日本社会に伝えたいこと

2019年3月24日

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言葉を交わせば、誰もが「芯の強いひと」という印象を受けるだろう。元国連職員の田島まいこ。大手監査法人で日本のビジネスパーソンを経験後、国連職員として世界中で食糧支援に携わり、日本で政治活動を始める―。華々しく見える彼女のキャリアだが、その歩んできた道は本人の言葉を使えば「泥臭い」。

アフリカでは、マラリアの蔓延する状況の中、ジープで移動、1週間シャワーも浴びずに、過酷な状況の中で苦しむ人たちの支援に奮闘した。支援の現場を選んだのは、18歳の時、フィリピンのスモーキー・マウンテンで見た少年たちの目に衝撃を受けたのがきっかけ。その原体験を忘れないまま、10年以上世界各地で駆け回ってきた。

今回、日本の未来について深い憂慮を抱き、帰国を決めた。もちろん政治経験はゼロ。しかし本人の中ではこれまでのキャリアも、これから目指す政治家としてのビジョンも、一貫した想いに貫かれている。現在、愛知県で精力的に活動する彼女に、これまでの軌跡と、これから目指す日本の姿を聞いた。

15年で7カ国を渡り歩いた。大切なのは「現場と向き合うこと」。そして「決めたことはやり通すこと」。

——自己紹介をお願いします。

田島まいこです。13年という時間を過ごした国連世界食糧計画(WFP)を1月3日に退職し、1月4日に日本に帰ってきて2日後に記者会見。毎日朝5時半に起きて午後10時過ぎに帰宅する、怒涛の毎日です(笑)

1月3日の記者会見のダイジェスト。南アフリカから帰ってきて2日目だった。

——田島さんは国連職員としてこれまでも、大学生や20代、30代に対するキャリア選択などで講演活動などもしていました。大切にしている信念があれば聞かせてください。

わたしがこれまで暮らしてきた国は、日本も含めて、イギリスやイタリア、フランスとアメリカ、アルメニア、ラオス、エジプト、帰国直前までは南アフリカ。9カ国で生活をしてきました。仕事場では、いつも泥臭く仕事をしてきました。

講演などでも、学生さんから「国際公務員になるには?」といった質問されたりもします。でも語学などの能力よりも大切なのは、「現場ときちんと向き合うこと」だったり、「一度自分で決めたことはやり通す」だったり、案外シンプルなことなんじゃないかと思います。

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「フェンシング」と「詩」と「ボイコット」 ——田島まいこの原点

——少し話しただけで、すごく意志の強いイメージが伝わってくるのですが、原点みたいなものはありますか? 高校では、練習が厳しいことで有名なフェンシング部だったそうですね。

はい。高校に入ってすぐ、フェンシング部に入りました。まっすぐに伸びる剣が潔くて、かっこいいな、やってみたい! と迷わず入部したんです。が、筋トレで誰かの気がたるんでいると先輩から怒られて、連帯責任でグラウンド10周とか、辛いこともありました(笑)

結果、同期で入った女子の同級生は、わたし以外みんな辞めてしまったんです。一緒につらい練習に耐えて、一心同体みたいだった仲間がいなくなっていく。わたしも辞めようかと思った時期もありました。でも負けたくないなって。自分で一度決めたことはどうしても続けたかった。

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——田島さんの「一度決めたらやり通す」という性格は子どもの頃からですか?

いえ。小中学生の頃は、親や先生にやりなさいって言われたことをただ素直にやっていた。受験に向けて、問題集をひたすら解くような。それ以外の道を知らなかったから、言われた通りに生きていた気がします。

でもフェンシングは自分で選んだことだから、大変だけど納得いくまでやりたかった。気持ちがまったく違いました。フェンシングは部活としては珍しい競技だから、大会に出てくる他校は、競技中心の生活をしている体育系の生徒たちなんです。それに勝つには、人一倍負荷をかけないといけない。一人で朝練、昼練、夜練をして帰宅すると足ががくがくして、玄関で倒れ込んでしまうこともあったくらい。

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——他に打ち込んだことはありますか?

詩ですかね。ヘルマン・ヘッセや茨木のり子さんが大好きで、20代の頃は、国連職員になるか、詩人になるかって真剣に考えたこともありますよ(笑)今も毎日発信している夜のツイートを考える時は、当時のことを思い出して書いています(笑)。

——学生時代に頑張ったこと、または一番印象に残ってるエピソードなどあれば聞かせてください。

頑張ったこと…じゃないかもしれませんが、高校3年生の時、先生に抗議して掃除当番をボイコットしたことは印象に残ってます(笑) ことの発端は、友人が、生理痛で体育の授業を休んだのに対して、男性の先生が「そんなことで休むな」って言ったんです。「これは許せない」と女子で団結して、掃除当番をさぼりました。結局、すっごい怒られて、反省文を書かされましたけどね(笑)

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ジープに長時間ゆられて現場へ——国連時代に鍛えられた適応力

——国連の仕事は憧れの仕事というイメージもありますが、現場はとてもハードだと聞きます。

そうですね。アフリカでも大変でしたが、最初の現場の仕事となったラオスでは、首都から飛行機で1時間、ジープで5時間、さらに自分の足で歩き、時にはメコン川を手製のボートで下って入るような村で、教育を目的にした給食プログラムを4年間やっていました。学校で栄養価の高いおやつを出すことで、それを目当てに子どもが学校に通ってくるんです。この年齢の子ども達がすべきことは、畑仕事ではなくて安全な場所で教育を受けること。ですから子どもを学校まで送ってくださるご家庭にも、食糧を提供していました。

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——現地の方々とのコミュニケーションはどうでしたか?

言葉の面でも一度現場に入ってしまうと、英語からラオス語、ラオス語から現地の言葉、と2人の通訳を挟んでの対話でした。もうそうすると言葉には頼っていられない。身振り手振りで気持ちを伝えてコミュニケーションをとってました。最後には村の人々と一緒に歌って踊って(笑) 現地ではバシーと呼ばれる、相手の幸福を祈る時に白い糸を腕に巻き付けるという儀式があるんですが、よそ者のわたしにもしてくれたんです。とても嬉しかった。

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相手の幸せを願い白い糸を腕に巻き付ける儀式をしてもらった時の思い出の写真を見せてくれた。

——すごい適応力ですね。

適応力には自信があるかもしれません(笑)。 必死にコミュニケーションしていると、だんだんと現地の人と打ち解けてきて。アフリカの各地でも人道支援に携わってきました。

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栄養不良が深刻なマダガスカル南部で、母子栄養プロジェクトの中にはいる。

18歳の時に訪れたフィリピンのスモーキー・マウンテン

——そもそも、国連で働こうと決めたきっかけは?

大学卒業後に入った企業は残業がものすごく長くて、終電でも帰れない毎日でした。わたしも同僚も自分のすべてを仕事に捧げていて、でも、時間があると次のボーナスが出たら、自家用車を買おう、高級マッサージ機を買おう、といったような話ばかりしていたんです。ある日、深夜にタクシーの座席に身を沈めて、「こんなに頑張って、何のために仕事してるんだろう」と思い直したことがありました。マッサージ機を買うために、私は人生の大半の時間を費やすのかって。

その時、大学入学してすぐに訪れた「スモーキー・マウンテン」がふっと思い出されました。フィリピンでは、収入源にできるものがないか、人々が必死に探し回っている、ゴミの屋外集積所がありました。ゴミが自然発火してあちこちから煙が上がっているから、「スモーキー・マウンテン」。

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フィリピン訪問時の写真。スモーキー・マウンテンでは衝撃的すぎて写真は撮れず、これは農村に入った時のもの。

——フィリピンの有名なスラム街ですね。

若くて感受性が鋭かったせいもあるかもしれないけれど、あの時感じた匂いや風景は、言葉や映像では言い表せない。ゴミを物色していた子どもたちが、わたしをじっと見てきた。冷たくて鋭い刃物みたいな眼差しだった。そしてその冷たさに、なんの痛みも感じずに人を殺してしまえる狂気を感じました。でもそうなった原因を考えた時に、「この子たちの置かれた境遇は彼ら自身のせいじゃない」と矛盾を強く感じて、涙が出てしまったんです。その場のやりとりで心が通じ合うとか、そんないい話なんかじゃ全然ない。でも心にずっと残っていた。

わたしは日本で恵まれた環境に生まれ、自分で決めたことを続けてこれた。でも世界には、貧しい場所に生まれたために将来の可能性を狭められてしまっている子どもたちがいる。その子たちが、自分の可能性を追い求める手伝いをしたいと思ったんです。

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突き動かしたのは、肌で感じた日本の影響力の低下——少子高齢化の解決なしに未来は描けない

——国際機関で着実にキャリアを重ねていた中で、日本で政治家を志した理由を教えてください。たとえば、男女格差の度合いを示すジェンダー・ギャップ指数では、日本は149カ国のうち中110位とG7で最下位です。女性議員も少ない。女性である田島さんにとっては、勇気のいる決断だと思います

世界のいろいろな国に住んできましたが、日本の影響力がすごく低下しているのを肌で感じてきました。たとえば10数年前にはアジアの電化量販店で最前列にあった日本のパソコンやテレビが、今はない。

国際会議に出席しても、昔は日本からどうサポートを得てくかが話題になっていたのが、今は中国とどうやって戦略的にパートナーシップを結ぶかが課題になっている。このままいったら日本はどうなっちゃうんだろう、という危機感がありました。

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——日本社会について、一番危機感を覚えるのはどんなところでしょう?

少子高齢化です。何十年も前から少子高齢社会が来ることはわかっていたのに、なにも解決されないままズルズルときてしまっている。政治の世界を男性ばかりが占めているのもその一因だと思います。

「女性の活躍」がいわれながら、働く女性が家庭を持つことも難しい。こうした問題の根本的な解決なしには、日本の未来を描くことは難しいと思います。

——とはいえ、政治活動を始めるのに、抵抗はありませんでしたか?

自分のすべてを賭けていた国連での仕事を辞めるのは、とても大きな覚悟でした。でも40歳を迎えて、全力で働けるのはあと20年くらいかなと気づいた時に、未知の世界で自分の力を発揮してみよう、と気持ちが固まりました。

男女の候補者の均等を求める「日本版パリテ法」の成立も勇気をくれました。「このタイミングで出ずに、いつ出るの?」って。

日本はジェンダー平等後進国——「変革は難しそうだね」国連同僚の言葉にショック

——田島さん自身もいま、まだ小さなお子さんを子育て中です。

わたし自身は国連という特殊な職場でしたが、やはり仕事と家庭生活を両立させるイメージは持ちにくく、35歳まではずっと独身でした。結婚後も、お互いに世界中を飛び回る仕事なので、夫婦が同じ場所で働けることは少なくて。それが離婚の原因になるとも言われているんです。状況は違いますが、夫婦それぞれが職を持つ日本の人も大変だろうなと思います。

一時期は、夫と別の国に住んで、育児と仕事をわたしが1人で抱えている時もありました。その両立は大変だと身をもって知ったし、特に日本だとその負担は女性に重くのしかかっていると思います。

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——国際的には、日本のジェンダー平等の遅れはどういう風に見られていますか?

実は、国連を退職するにあたって同僚に「日本のジェンダー平等の状況を変えたい」と話しました。その中で、日本は149カ国のうち中110位とG7で最下位という話もしたのですが、「うん、日本は多分そのくらい悪いだろうね」とアフリカ・欧米出身問わず、皆に自然に納得されてしまったんです。

これには「世界第三位の経済大国日本って、世界でそう見られているのか!」と私が驚いてしまいました(笑)。つまり、「日本は改善の見込みのないほどジェンダー平等の進んでいない国」というイメージが世界で強く持たれている。海外のメディアで報じられる国際会議などでも、出てくるのは男性だらけ。かなりまずい状況だと感じています。

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地元活動はアウトドア・ウェア姿で。活動エリアのひとつである「瀬戸銀座通り」は、若手有名棋士の似顔絵があった。

大切なのは「社会みんなで子どもを育てる」価値観

―少子高齢化をどう克服していきたいですか。

まずは「社会みんなで子どもを育てる」という価値観だと思います。つまり、育児や介護を家族だけで担うのではなく、社会みんなで担っていく。

いまの日本は、一方で「男性は仕事・女性は家事」という性別役割意識が根強くあり、もう一方で核家族化が進み、昔のような大家族や隣近所のサポートもなくなりつつある。女性はすごく大変な立場に置かれていると思います。

子育て世代を支援する政策のメリットは、必ずしも子育て世代だけにあるわけじゃない。社会のために必要なんです。そうした価値観に基づいて、政策転換をしなければいけないと思います。

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地元では子育て支援施設なども視察している。もうすぐ3歳になる息子は現在、国連職員の夫と海外で生活しているため、とても寂しいそう。毎日の楽しみは息子とのインターネット通話。

——立憲民主党では、山内康一さんなど男性議員も含め、子連れで会議をしています。

それをつい最近知ったんですが、素敵ですよね!本当に、身近な職場環境から変えていかないといけない。

もう一点、育児や介護でいったん職場を離れても、同じ条件で戻れるような制度を実現したいです。日本の企業では、子育てのために一度仕事を離れてしまうと、退職前と同じ給与水準で、同じレベルの職に戻るのは大変です。そこが変われば、日本はもっと元気になると思う。

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人手不足・南海トラフ…見えてきた愛知の課題

——愛知で政治活動をスタートして一ヶ月ほど、見えてきた課題はありますか?

いまは愛知という地域に飛び込んで、あちこちを周り、生活の悩みや地域の課題を聞かせてもらってます。介護の現場はどこも圧倒的に人手不足ですし、障がい者を雇用する施設は、現場を理解せずに実施された規制で運営難に陥っています。また、非正規雇用の方々は愛知県にも多くいるけれど、待遇の面で改善すべき点が多いと感じています。

——他に愛知ならではの課題はありますか?

防災・減災です。愛知は南海トラフ地震の影響を受けるはずですから。国連で勤めていてわかったのは、今も昔も難民問題を引き起こすのは紛争や戦争ですが、現在はそれ以上に、地震や洪水といった自然災害、気候変動が人道支援の原因となっている。東日本大震災を経験した日本だからこそ、その教訓を活かさなければいけないと思います。

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——最後に田島さんが目指す社会を教えてください。

わたしが国連時代からテーマにしているのは、「人種、性別、信条などの属性に縛られず、自分の生きたいように生きられる社会」。少子高齢化や子どもの貧困が深刻になるにつれ、かつては「豊かだ」と言われていた日本でも、選べる未来の幅がどんどん狭くなりつつあるように感じています。

格差が広がり、一回レールを外れたらもう戻ってこられない。そんな社会は、女性にとっても若い世代にとっても、マイナスでしかない。育った環境や性別で選択肢が狭められる日本にはしたくない。10歳でも100歳でもいい。誰もが選びたい未来を選べるようにしたいですし、私の政治家としての仕事は、その選択肢を行政と連携しながら用意していくことだと思います。

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田島まいこ MAIKO TAJIMA

1976年生まれ。青山学院高等部卒業。高校2年時には私立高校フェンシング大会2年女子準優勝。青山学院大学国際政治経済学部卒業後、大手監査法人のKPMGで2年間働く。同社退社後は国連職員を目指し、Japan Emergency NGO(JEN)で勤務後、イギリスのオックスフォード大学学院修士課程を修了。2006年より国連世界食糧計画(WFP)に所属。ラオスでは学校給食のプロジェクト、イタリア本部ではモニタリング評価に従事した他、アルメニア、エジプト、南アフリカで働いた。著書に『世界で働く人になる! 人づきあいと英語のスキルを劇的に上げる41の方法』(アルク)、『世界で働く人になる!実践編~グローバルな環境でたくましく生きるためのヒント26』(アルク)、『国連で学んだ 価値観の違いを超える仕事術」(ディスカバー・トゥエンティワン)。